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弥左ェ門の歴史
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[ 住 所 ] 〒844-0003 佐賀県西松浦郡有田町上幸平1-11-3 MAP
[ 営業時間 ] 8:00~17:00
[ 店休日 ] 火曜日
[ TEL ] 0955-29-8079
[ FAX ] 0955-43-2580

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弥左ェ門ヒストリー

初代弥左ェ門(松本弥左ェ門)

上幸平山の窯焼初代松本平左ェ門の次男として生まれる。その後、成人し独立して弥左ェ門窯を開く。
この当時、有田の窯焼は藩から名代札を下付されて、内山12外山10の登窯を共用して業を営んでいた。
上幸平山は内山の窯の一つである。
弥左ェ門窯は柿木小路と昔から呼ばれている上幸平西端の小径と大樽との間にあったので、一般には大樽口と呼ばれていた。

二代弥左ェ門(松本庄三郎)

文政6年、弥左ェ門の長男として生まれる。母はおいわといい彼が4歳の時に死亡。
天保9年、彼が16歳の時に初代弥左ェ門が死去したため二代目襲名し、窯焼を継いだものの、時勢は天保の大飢饉による不景気のどん底で、若年の彼では経営を続けることができずに廃業。
その後放浪生活を続けたが、いよいよ生活に困窮し、親から譲り受けた家屋敷だけは守り抜きたいと遂に、家屋敷を人に貸しその家賃をもって講掛け(ギャンブル)を行い、自分は佐賀城内の成富質屋という豪家に下男として年季奉公する。

物心ついては母の愛情も知らず、成人しては終始生活に追われて最低の人生を歩んできた彼だが、未だ年季があけないうちに思いがけず講が当たり、この下男奉公という最低の境遇から這い上がった。
それから西村おともという7歳年下の女性と結婚するが、29歳の若い妻と乳飲み子を残し、36年の困苦に満ちた生涯を終えた。

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三代目弥左ェ門(松本庄之助)

三代目弥左ェ門(松本庄之助)

母おともが唐物の行商を細々と行い生活費を稼ぎ、辛うじて雨露をしのぐ母屋はあるものの、赤貧洗うが如しの形容そのままの生活を少年時代はすごした。
15歳を迎えた正月、三代目弥左ェ門を襲名。母がコツコツと貯めた3千円をもとでに庶民金融の事業をおこなう。
貧乏のどん底で死んでいった父、借金で苦しんでいた母、貧乏人と蔑まれた自分自身のことを考えての決断であった。
事業は好調に推移し、17歳の時に泉山の窯焼深海米太郎の長女おうたを妻に迎える。


21歳の時に妻の父米太郎が死去したため、彼が支配していた西登窯の総支配人となり、次第に頭角を現してきた。
明治21年、地域産業の発展のため同士とはかり、共益株式会社という一般の町民のための金融会社を設立。(この共益会社は共益銀行となり、後に合併し今日の佐賀銀行となる)
当時有田には有田銀行1行しかありませんでした。
この銀行は有田の支配層である窯焼を中心とした銀行で庶民には近づきがたい面がありました。
そこで彼は一般町民が気軽に利用出来る銀行の必要なことを痛感し、町内の素封家蒲地兵右衛門氏の協力を得て洪益銀行の設立に踏みきったのでありました。
当時、巷間では有田銀行を殿様銀行、洪益銀行を草鞋銀行と呼んでいたことからも両方の性格は自ずから明らかであります。
その後この両行は良きライバルとして競い合い、地場産業の発展に貢献しました。

明治22年町会議員となり、更に、西松浦郡会議員、郡参事会員副議長等の要職に歴任した。
明治28年には、有田に徒弟学校の創立を計り、更にこれを、県立工業学校に昇格させる運動を続け、遂に明治36年佐賀県立有田工業高校となり今日に至っている。
九州鉄道会社の中樽貨物駅の設置から上有田駅の開設にも努力し、遂に明治42年上有田駅が開設された。
このため、焼物の商流が劇的に変わり、今まで伊万里商人の独壇場だったのが有田商人にとって代わられた。

昭和6年に75歳の生涯は終わる。
窯焼ではなかったが有田町全体の振興のため尽力を尽くした人生であった。

四代目弥左ェ門(松本静二)

明治9年、有田で酒造業を営む渡辺源之助の次男として生まれる。
明治25年、彼が高等学校の2年に進学する時に、松本庄之助の養子となる。
卒業後、伊万里銀行に入行させられるが、弥左ェ門窯を再興させ海外に輸出を行うという夢を実現するため、明治35年、養父に黙って銀行をやめ、松本家を無断出奔し義兄前田儀右衛門から有田焼陶磁器見本十数箱を借り受け神戸を出航、インドのボンベイに向かった。
ボンベイで資金が絶えた彼は、南アフリカのダーバンまで旅客運賃、貨物運賃共に着払いという異例の取り扱いで、デッキパーセンジャーとして行き着いた。

四代目弥左ェ門(松本静二)

ダーバンでは岩崎という唯一の日本人が洗濯屋をやっており、そこに転がりこみ、有田焼を質に金をかり、渡航費用を支払いそのまま、その洗濯屋を手伝う事になる。
ヨーロッパまでの渡航費用をここで稼ぐ腹積もりであったが2年半たった時、日露戦争が勃発し日本に戻らざるえなくなり帰国。
帰国後アフリカで覚えた西洋料理の味が忘れられず、妻に作り方を教え込みカレー、シチュー、スープ、ステーキ等をつくらせ友人を招いては西洋料理を食べさせた。
当時、松本家の西洋料理は有田では有名でハイカラと呼ばれていた。
有田焼輸出の夢が忘れられない彼は有田焼の貿易を目的とする陶磁器販売会社、有田物産合資会社を明治39年設立。今度は養父庄之助も快く承知し資金を提供し、これを機に四代目弥左ェ門を襲名する。
生地の仕入れは有田磁器合資会社と肥前陶磁器合資会社を主体とし、赤絵付は古伊万里赤絵では定評のある鷹巣又四郎を専属とした。
裏印と商号表記は□の中に有、即ちとした。

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五代目弥左ェ門(松本哲雄)

五代目弥左ェ門(松本哲雄)

昭和15年 : 有田物産合資会社を継承し、株式会社有陶を設立し国内卸及び円ブロック(鮮、満、支)貿易において実績をあげる。
昭和22年 : 商号を有田陶磁器株式会社と変更、南方向けの食器の輸出貿易に進出する。
昭和28年 : 商号を現在の有田物産株式会社に変更、ゴールドイマリというブランド名で北米、欧州向け輸出に転換する。
シリアとモロッコに大得意先ができかなりの量の輸出を行う。
昭和32年 : 取引先有田陶業有限会社の生産設備を一切譲り受け、念願の窯元になり、弥左ェ門窯を再建する。
昭和39年 : 伊万里市に進出し、日用食器の生産を行う。
ここに弥左ェ門窯は一般食器から花瓶、飾皿等の装飾品に至るまで、有田焼で出来るほとんどの品種が生産可能になった。
昭和43年 : 製品の品質安定と向上を計る為の陶土を自給するため西有田に陶土工場を設ける。

古伊万里の復興に努力し伝統産業の育成と貿易振興にも貢献した功績により昭和45年に藍授勲章、昭和52年には勲五等双光旭日章を授与される。

六代目弥左ェ門(松本郁夫)

円が変動相場制になり200円を越した辺りより、輸出が値段が合わなくなり、販売先の主力を国内市場に移す。
取引の大半が有田地場の卸商社、小売商人になる。
平成6年、赤坂工場を新設
外尾山工場老朽化の為、赤坂工場を新設し移転する。

六代目はお酒が好きであり、平日は帰れば水割を飲み、休みの日は朝から水割を飲むほどウイスキー好きであるが、高価なウイスキーは嫌いで、サントリーホワイトが大好きである。
車も高級車は嫌いでトヨタカローラを愛する誠実で素朴な男である。

六代目弥左ェ門(松本郁夫)

七代目弥左ェ門(松本哲)

七代目弥左ェ門(松本哲)

九州大学経済学部卒業後、某都市銀行に入社。
3年間勤めるが実家に呼び戻され家業を継ぐことになる。
現在のライフスタイルに合った有田焼ARITA PORCELAIN LABシリーズの開発と、泉山の陶石を使用し、有田焼の本来の良さを追い求めた、明治時代の逸品を復刻する精磁会社復刻プロジェクトを手がける。

身長186cm 体重90kg の野獣。


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松本家について

建築年代 1900(明治末期)

 松本家は奥行4室型で、入母屋造り妻入りの概観を持つ明治後期を代表する町屋である。表の間にミセとナンド、奥に中の間、奥の間にブツマとザシキが続き、通り土間側にダイドコが張り出している。

2階は総2階となり、中の間上部は物置として、奥に次の間、座敷と続いている。通り土間・表の間・中の間の天井は化粧床天井で、着色された太めの柱・567890、梁と白い壁がコントラストを成している。中の間と表の間の間仕切りに設けられた堅格子戸は建築当初の面影を残している。中の間の箱階段は間口1間半で、引き違い襖の中に納められており装飾性の高い手摺が設けられている。一方、1階座敷に造られた箱階段は、間口1間で、手摺もなく、中の間のそれとは趣を異にしている。

又、1階座敷には、ダイドコ側に1.5尺の奥行を持つ床の間が造られている。2階座敷は床脇を略し、取込み平書院を持った床の間で、格調高くつくられている。

松本家について
箱階段

箱階段は主に動線の中心となる中の間に設けられ、明治以降に見受けられる。

踏板の下には、中の間から利用できる引き出し、引き違い戸とし、物入れなど利用され、箱を積み重ねた家具的要素をもつ階段である。
箱階段

襖引き手

襖は建具の中で唯一径師職(表具師)がまとめ役となり、指物師、金物師、漆師の四職で技を競い合う建具である。柱と梁による線材構成で、開口部の多い日本の木造建築にあって、建具が空間の表情を決める程に重要であると同じように、引手はその建具の造り手や、旦那のセンスを彷彿とさせるポイントである。

襖引き手
欄間

有田の町屋の中でも、襖引手と並んで、それぞれの部屋の用途に応じ自在に造られており、意匠性の高い、個性的なものが多数見られる。

欄間

柿の木小路

松本家横にある小路。
カキノキシュウジと昔から呼ばれている小路です。

進んでいくと、右手に小路庵、突き当たりに辻精磁社のトンバイ塀があります。
柿の木小路

小路庵

江副孫右衛門氏の自宅

日本陶器(ノリタケ)のディナーセット開発の総責任者でその開発に成功。

戦時中は日本碍子や日本特殊陶業の社長歴任。戦後2年ほど有田の町長を勤めましたが、経営の危機にあった東洋陶器(TOTO)の再建のため社長として復帰。

小路庵

トンバイ塀

窯の中で飛び散った釉薬が付着し、一種独特の色調と光沢を持った、トンバイと呼ばれる古窯の耐火煉瓦の廃材を利用し、積み上げた塀がトンバイ塀である。

トンバイ塀
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有田について

有田の内山の町並み

日本で最初に磁器の焼成に成功した有田は、磁器の発見された泉山近くの狭い谷間に活気溢れる都市社会を形成した。

ここで生産された磁器は伊万里から出荷され、日本市場を支配するとともに、明の景d徳鎮にかわって、一時は世界市場を席巻した。

こうして磁器の生産に特化しつつ経済基盤を整えた有田は、文政11年(1828)の大火に代表される災禍を乗り越え、今日に至るまで活気を保ち続けている。この世界に名の知られた有田には、世界に誇れる伝統的町並みが残されている。

有田の内山の町並み

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有田陶芸の歴史

有田郷皿山考

既成概念の中での有田皿山は、白磁創業を機としての開窯されたかの感を強くし、桃山末期の文禄末年に帰化した朝鮮人陶工の一団が白磁礦を探索し、発見したことによって有田皿山が構成されたかのように世人に普及されていることは、いささか早計である。
白磁創業以前の有田郷の陶業が母胎となって、白磁礦床発見以後に、有田内山・外山の窯場が構成されたことを確認していただきたい。
有田郷の郷村体制を確立した西肥前の豪族、松浦党有田氏。
有田郷は、西肥前の田中村・外尾村・曲川村・大山村の地域をもって構成されている。
居城地、唐船城は、有田川が三面をめぐり自然の要がいを形造っていたので、有田川を利用した水路交通によって、伊万里津との交易の端ちょが中世末には開かれてており、このことが、曲川・外尾山地方の諸産物の移動に役立ったことも、有田郷の発展を知るうえに大切な地勢であろう。

有田郷に陶業が開窯されたのは、桃山末期と推察される。有田郷内の外尾・曲川・南川原一帯を散策して当時の宿場・街道筋・窯址・墓地を探訪すると、桃山末期に古唐津系の陶器が焼造されたのは「清六の辻」「小溝」「山辺田」「下南川原」地域であったと思考される。「清六の辻」「小溝」の窯址の物原から数多くの藁灰釉の碗、皿類が発見され、山辺田や下南川原の天神森と小物成の窯址からは、絵唐津様式の大皿・小皿類をはじめ、碗類、酒盃類が数多く出土しているのを観察すると、白磁礦発見前の、有田郷西域の陶業の様式なり製品の傾向がおのずから解明できるのである。後年、有田皿山の内山の指定された地域の「田中村」は、やはり、山峡の村落に過ぎなかったのである。江戸初期の元和年間には、曲川地域に、酒井田円西(初代柿右衛門の父と伝えられている)や高原五郎七(大阪冬の陣の落武者で製陶に熟練した浪士)や帰化朝鮮人の鐘ヶ江三兵衛(李参平)など、製陶に心得のある者が滞在して製陶に従事したことが、後年において有田郷をして「皿山」の環境を形成する大きな要因となっていることも、忘却できないのである。
白磁が焼成される前までの有田郷の陶業は主として、上松浦系の旧伊万里氏領内の土民たち陶工によって、古唐津系の陶技が、西有田地区の外尾村の山境、下南川原地域の山里の窯場に継承されていたと考察すべきであろう。元和以前と異なり白磁焼造技術が安定すると、山峡の有田谷であった田村村の地域が窯場の檜舞台へと推移し、皿山代官直轄の地として内山に格上げ指定され、外尾、曲川地域の窯場は外山地区に区分された。有田内山は本皿山として藩庁は処遇し、加えて有田郷の外尾山・黒牟田山・広瀬山・南河原山・伊万里郷の大河内山・市の瀬・筒江山などを外山に包括し「泉山」の陶石の使用を許している。有田内山は、泉山・上幸平・本幸平・中樽・上白川・中白川・下白川・稗古場・中野原・岩谷川内の各地区に、区画されて。それぞれ窯場が築かれ、内山の中でも、赤絵町は袋小路としての取扱いで登録赤絵屋が定住した。皿山御役方所には皿山代官が常駐し、泉山には石場番所が設けられ、下南川原地区に小物成役所が設置されると、皿山としての機構が整備されていった。内・外山の陶家・陶商・陶工は、それぞれの職種に応じて運土銀を上納して藩の財政をまかなうまでに確立された。このような藩政と陶業との結びつきは他領内の皿山ではみることのできない殖産現象だと思考される。

さらに有田郷皿山の陶業を考察するうえに不可欠の事項は、有田皿山が、近世の幕藩体制下の経済機構の中で、諸国の廻船問屋が集結した伊万里津にきわめて近い地理的条件に恵まれており、さらに寛永十八年以降ただ一つの海外交易の門戸であり、拠点であった長崎の出島に比較的近い環境にあり、きわめて有利な地理的条件に恵まれていたことである。この二つの産業上の立地条件が、近世窯芸の花形として有田皿山が脚光をあびた大きな要因であることを、産業経済史的な角度においてさらに究明することも大切な課題であろう。

幕政と有田皿山の陶業

白磁窯の創業

有田皿山での白磁器の焼造開窯期は、元和二年が定説に近く「有田皿山創業調」「多久邑主旧記」「金ヶ江旧記」によると、鍋島本藩の配下多久邑主の領内に移住した李某が、本藩の命をおびて領内の陶石発見の巡見探査を行い、たまたま有田郷内の山境で白磁礦を発見したことが、有田郷皿山をして日本での白磁器創業の地と意義づけたことは有名な史実である。
今日やかましくいわれて普及されている「李参平」という氏名は旧記には記録されていない。「李」という性は高麗人であろうが「参平」「三平」という名前は比較的新しい呼び名といえよう。三兵衛が純粋な陶工・工人であったか、どうか判定できないにしても、朝鮮人陶工の一団の中での統率者であり、多久長門守安順の配下で陶業を営んでいた窯主的な地位の人でなかったかと推察される。封建体制下の士農工商の身分の階級の差がいちじるしい時代に、ひとりの朝鮮人陶工の氏名を記録に残すことは考えられないのである。やはり、金ヶ江三兵衛という帰化朝鮮人は鮮土に滞陣の節に道案内物資の調達に相当の便宜をはかり、要領よく立ち回った実力者の1人と思考される。金ヶ江三兵衛、その属下の陶工たちは、多久邑主から有田郷の山境の地、白川谷上の松林のなかの「天狗谷」に移動し、落水を利用した唐臼による陶石の粉砕、登り窯の築構にあたったと推察される。現在、「初期伊万里」と分類して有田皿山の白磁創業の焼造品を珍重がるのは、李朝白磁の陶技が端的に表現され、いかにも開窯期の製品らしい格調を温存しているからである。元和末年から寛永初期には、鍋島藩国老の武雄邑主であった後藤家信の領内にあった宋伝とその妻の百婆仙の下にあった鮮人陶工たちは、有田郷の内山の稗古場、天神森に移動して白磁器の焼造に従事したようである。寛永十四年ごろの有田皿山は、白磁焼成の創業期・初期の時代を経過し、まったく皿山体制が整い、需要供給との不調和、山林の乱伐をはじめ、鮮人の陶工と土着の陶工、農民などの感情対立も深刻となり、鮮人陶工、特に白磁器焼造業を保護するために陶工陶太の藩令を布告している。藩政の有田皿山陶業反映の一端がこのころすでに学ばれ、有田皿山の改革期を迎えたといえよう。

赤絵完成期の有田皿山

 寛永末年ごろから正保年間にわたって有田皿山は飛躍的の陶技が発達した。そのひとつは、南川原の酒井田喜三右衛門(初代柿右衛門)が寛永末年から正保二年前後に中国赤絵を模造することに着目し、伊万里の陶商、東島徳左衛門をとおし赤絵の主顔料(唐石と推察)を入手し、家運が傾くまでの苦労を重ねて、ようやく、日本で始めての磁胎上絵付(赤絵)を完成したことである。初代柿右衛門の赤絵磁器が完成したころは、当時唯一の海外貿易の門戸であった西肥前の平戸港は閉鎖され、徳川幕府の邪宗禁止令・鎖国令によって長崎出島に港は移転したが、その後江戸末期の安政三年(1856)まで、出島の商館をとおしてオランダの東印度会社が肥前有田皿山の染付磁器、色絵磁器を東南アジア・ヨーロッパ地方へ輸出したのである。有田皿山の磁器が注文生産によって正常な貿易ルートにのり、取引されていた。当時の有田皿山の色絵磁器をはじめ染付磁器が、相当量取引されていたことを裏付けているとともに、器物の形状は西欧の調度品・食器類を模し、色絵付は、明末清初の中国風の絵模様、字模様を描き、東洋の磁器らしい様式のものを積み出していたことが想像される。寛文十二年、有田内山に対して、さらに規制を定め、窯焼業者百八十戸、赤絵屋十一軒と改め、特に他領に、赤絵付の技術がもれるのを防止する意図の下に、赤絵屋を登録制度にして、有田内山の下幸平の一部に終結し、袋小路化し、赤絵町と呼称し別格な監視と保護を皿山代官に課している。

有田皿山の黄金期

 有田皿山の安定した染錦製品の量産化が整ったと同時に、裏日本の北海路、表日本の南海路、西海路の海路網が発達し、伊万里津には、表日本の紀州の宮崎・箕島の承認、泉州堺の商人をはじめ、裏日本の酒田・越前・越後・石見などの商人が「廻船問屋」的な役割をかねて伊万里津に長期滞在し、国内の市場に、あまねく有田皿山の内山・外山の窯場の製品を交易したことが、皿山をして黄金期を迎えしめる契機となったのである。このころの有田皿山では条件のよい他領へ出稼ぎにゆく陶工もあり、他領からの出入りも多い。江戸末期まで有田皿山の窯焼をはじめ陶商・陶工・一般人民の生業と日常生活の「掟」として受け継がれた。「手頭」の主な項目は公家御法度の儀、火之用心の儀、博奕、金銀米銭の懸事、勝負、旅人の儀、皿山運上焼物売方の儀などであるが、旅人の滞在は、届出もやかましく郷方の儀として定めているが、なかでも他領への「指南」をきびしく取り締まっている。他国他領の窯場に出向いて、鍋島領内の絵書、細工人が指導することはいうまでもなく、賃銀をとるようなことは法度であり、これをおかしたものは、定めの科銀をおさめ、場合によっては、罪人として処刑することを示達している。加えて、焼物土(泉山の陶石)をも、他領へいっさい移出してはいけない示達をし、たとえ、鍋島領内においても新しい地域に持ち出しを禁じ、有田の内山・外山の窯を中心に泉山の陶石を用いることを規定してあったことを立証している。寛延元年には窯焼、赤絵屋に在来の窯単位の課税を改め窯揚げの度ごとに運上銀を上納することを示達し、宝暦元年(1751)には、窯焼百八十戸、赤絵屋十一軒に対し名代札(永代の職種別免許鑑礼)を交付し、運上銀高を明記し、さらに職種別にも小札を付属し、水漉札、細工札、絵書札、荒仕子札・釜焼札・底取札を交付し、それぞれ札単位に運上銀を課している。明和七年(1770)には、赤絵付の需要が多くなるにしたがって、寛文以来守られていた赤絵屋の件数を十一軒から十六軒に増やし、再登録している。赤絵屋の登録制は、他領に秘法がもれることを気遣っての制度であったが、安永八年(1779)赤絵屋の家督相続について皿山代官が赤絵屋に諮門し、赤絵屋は、自分たちの「座」を守る意味もあって、協議の上で、あらかじめしめされた文案によって答申した結果、一子相伝の「赤絵付、家族家督相続定法」なるいかめしい、新しい「掟」の中で生業を営んだ。このことによって、赤絵の家門を守るために、格子なき監獄にも近い環境の中で、赤絵屋が黙々と生業を続けた封建時代の皿山の断層が推察される。

江戸末期の有田皿山

 近侼の平戸領内の三河内・波佐見の窯場も量産化の体制が整いはじめ、寛政のはじめには天草陶石が利用された。庶民生活の食器として生活用品としての磁器の需要が大幅に累増したことを裏づけている。文政十一年(1828)八月に有田皿山の内山一帯が大火に見舞われ鳥有に帰した結果として、皿山創業以来の変革期を迎え、窯業の転業はいうまでもなく、陶工の移動はあとをたたず、外山・大外山に出稼ぎにゆき、あるいは、四国の砥部、遠くは、東北地方の切込、鼻ヶ岡などの窯場に出向した。当時の内外交易の発展を物語っている。

鍋島藩窯考

 鍋島藩窯の制度意図は、領内諸窯の規範となるような格式の高い焼造品を製作することと、藩の直営企業による藩窯の製品を禁裏御用をはじめ徳川幕府・親藩をはじめ、諸大名、公卿、社家、門跡寺院、諸名社寺などに献上奉納することによって、佐嘉本藩の体面を保つことにあった。藩窯は、有田内山の岩谷川内の窯場、寛永五年(1628)から万治三年(1660)までの三十年内外の間、この地で焼造し、主として藩圭用の調度品の焼造した。さらに酒井田柿右衛門の窯場にある南川原山に移窯し、寛文初年(1661)から延宝三年(1675)までの間、焼造している。やはり柿右衛門一族に技術指導をゆだねたころと推察される、その後、延宝三年に、屏風岩のさそりたつ、山堺の地で青螺山の山ふところに包まれた大河内山に移窯し、この地で本格的に安定した藩窯機構の中で、明治四年の廃藩置県まで約200年の長い間、隠密裡に、藩の直営企業としての藩窯が経営された。三度藩窯が移動した理由は、平坦地の窯場では、人馬の交通がはげしくなり、諸領内から出入りの旅人も多く、陶技の秘法を守るのに容易ではなく、またすぐれた陶工・職人を安住、確保できないことにあった。藩窯のあった大河内山を「御道具山」と呼び、奉仕した陶工たちを「御細工人」と、呼称している藩窯が、もっとも安定し、秀抜の格式高い、いかにも大名窯らしい焼造品を生産したのは、元禄から享保年間である。「定」の奥付に、有田皿山の民窯(脇窯)の腕ぎきの名工は御用窯の方へ抜擢、雇用するとともに、在来から御細工人として奉公している陶工でも老境になり細工が鈍く下手の場合は解雇することを意味し製品の格調を保持する事を厳達したことがうなずかれる。藩窯製品の意匠模様については江戸や京の絵師などの意匠を徴したのではあるまいかと思考されるほど、享保前後の藩窯品は上方的で構図も奇知に富み、色絵付の配色効果もすぐれている。「色鍋島」の製品は、成型、下絵付、施釉、本窯までの行程を本細工所の大河内でまかない、色絵付(上絵)の工程は、赤絵屋に依託したものであり、御用赤絵屋の伝統は今泉今右衛門が受けついでいる。

系譜別・技法分類

有田陶器系

有田郷の陶器窯の製品は、茶陶、茶器類はほとんど稀であって、磁器焼造前後の民需用の雑器に過ぎない。したがって焼造された陶器類の品種は、大鉢、小鉢、片口、碗類、皿類、摺鉢、徳利などであって、灰釉薬を施したものと、鉄釉薬を流しかけたものが多い。作調は概して鈍重で類形的な意匠形状の皿類、碗類が主である。

初期有田磁器系

一般には「初期伊万里」と呼称される。この分類に包括される磁器は、元和末年ごろから、寛永末期までの間に、主として有田郷の内山・外山をはじめ隣接する武雄領内や平戸領内で焼造された製品である。初期の技法としては、作調は、肉厚く鈍く成型され、高台削りは素朴で荒く、皿鉢や、鉢類の形状径に対し高台の径が比較的狭いのが特徴である。李朝系陶工の直系の技法導入期ともいえよう。染付は磁器の主顔料である「呉須」入手前の、無文様の「粗白磁」が小碗類・水滴・小皿類が土灰釉の生掛で焼造されているのをみると、李朝白磁の作調に共通した素朴な造形美を感受され、これらの資料は主として白川の天狗谷窯や稗古場の窯址から採取される。「初期の染付」の技法は単調で粗野で、顔料呉須が入手困難なためか、薄い色調で、まったく李朝染付に類似した絵文様の柳、山水禽鳥、草花、線文などを軽妙な中に哀愁をおびて描いている。
「創業開窯期」
元和二年(1616)からおよそ元和五年前後までの間に、主として有田郷内山で焼造された粗磁器類、泉山に陶石礦床発見。
「安定期」
胎土の調整、釉薬の配合調整、焼造技術ともに向上し、製品の作調安定。意匠、絵模様は李朝様式の中に、中国明末の民窯風な様式が加味される。
「完成期」
このころの作調は、磁器が実用的な安定した品位を保つも、ある程度の量産化がなり、意匠、絵模様ともに多分に、中国的な様式へ移行し、品種も多様性をおびる。酒井田一族が赤絵を完成。

古伊万里系

古伊万里の製品は多種な機能性と多様な意匠文様に富むが、大別して染付磁器、彩絵(五彩、金彩、銀彩、単彩)磁器の他に、古伊万里の特徴ともいうべき染錦(染付と色絵、金彩)に技法分類される。

「古伊万里前期」
様式、特に形状なり絵模様は、朝鮮李朝的なものから中国の明末清初の様式に移行し、さらに狩野派風な絵画的な模様をはじめ各種の工芸品(蒔絵、金工品)などから着想し和風化に推移している。技法的には「染錦」とよぶ、いかにも古伊万里らしい染付と色絵模様を組み合わせた錦手物が焼造されはじめた。
「古伊万里最盛期」
最盛期の製品は、品種が多岐にわたり、献上手古伊万里と呼称される極上の気品ある禁裏御用品、ことに形状には「型もの」と呼ぶ兜鉢類の深味のある鉢類や円縁と呼ぶ縁幅の広い、和洋とりまぜた形状の皿類が特徴づけられている。絵模様には「染もの絵手本」などから着想したものが多く、なかには、浮世絵版画、長崎版画、染織品などの図柄をそれぞれの器物の形状に調和して絵付けしたものが多い。この期には「磁彫り」「手びねり」「型掘り」といった色絵磁器の彫像や異型の調度品、文房具用品、灯火用具まで焼造され、奇知に富む古伊万里人形の優品が製作された。
「古伊万里爛熟期」
この期の製品は、最盛期の様式なり絵文様をそのまま継承した結果として、類形的な倣製的な意匠絵模様の器物が多く磁器の磁肌を埋めつくすような派手な「錦手」に推移していった。したがって絵筆の運びも迫力に乏しく鈍く、絵模様の選択も独創性を失い、色絵磁器のもつ格調が次第に月並的な製品と化していった。
「伊万里後期」
内山に大火災による環境の変貌と相まってただ様式を追従し、製品は乱調となった。

柿右衛門系

「江戸初期の柿右衛門様式」
李朝風絵模様は比較的少なく、中国の明末の絵模様をことさらに簡略化した、菊花文をはじめ草花文などが多分に図案化され文様化されて描かれている。一般に色絵顔料の純度が低く、不純物が多く、加えて精製されていないので粒子が荒く、色層は厚く鈍い。運筆は力強く、線描はいささか重い。磁肌には、泉山特有の硫化鉄が点々と露呈し、釉肌の中に点在している。
「江戸中期の柿右衛門様式」
見込みの絵模様に山水図、唐獅子などを染付で描き、まわりに五彩の色絵付で菊花文、牡丹文、草花文をていねいに描き、縁の部分を、染付、あるいは、錆釉(ふちべに)をぬり構図全体にまとまりをみせた様式は、この期の製品の様式の特徴である。器物の中に空間を、十分に残し、磁肌本来の美しさをみせ、清楚な簡素な模様を、単彩な色調で描き、限りない品位を温存している。
「江戸後期の柿右衛門様式」
安永以降(1779)の製品は、多く乱調となっている。その要因は、直接的には経営不振。品種も多岐となり、染付製品も多く作調は急に品格を失う。

鍋島藩窯系

「藩窯初期の様相」
鍋島藩窯の開窯は、御細工屋として岩谷川内に窯を設け管理運営したことからはじまり、御用窯では、やはり染付磁器の焼造が主であり、文様が簡略されて描かれたのが発見され、あるいは簡単な更紗文様風の資料が発見されている。いうまでもなく色絵付の生地ではなく、純然たる染付の皿類と考察される。
「藩窯中期の格調」
藩窯は山境の地大河内山に、三度移窯した。絵模様は、刊行された一連の絵手本に、蒔絵をはじめ、その他の工芸品、なかでも染織品から着想し、きわめて写実的な和風模様の描写と、中近東や中国の近代的な図案文様の描写の二つの様式がこの期の作調である。雇用の御細工人の待遇を改善優遇し、最盛期にはいり、染付、染付青磁、青磁、色鍋島の各種製品ともに安定した技術を保ち色鍋島の高台皿の優品、異形の猪口類、青磁の置物、香炉類などの格調高い製品を焼造している。曲面が水盃に似た美しい高台皿の均衡のとれた形状、精巧な線描、赤、青、黄を主調とした上絵付の配色効果、斬新な絵模様の絵付、力強い線描、高台に線書した櫛目文のきびしさは、色鍋島の伝統ある格調といえよう。
「藩窯後期」
享保前後の作品を模造する程度であり、形状・釉面絵付ともにいささか乱調であり、ことに裏文様・高台文様ともに線描乱れ、全体的に鈍重である。

※参考文献 日本のやきもの 淡交社

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